【米沢牛について】
米沢牛の歴史
米沢牛の起源
米沢牛の起源ですが、古く天保元年(1681年)に、当時の米沢藩主である上杉綱憲が、米沢牛の産地である山形県南部「置賜地方」に、現在の岩手県である「南部」から、農耕、運搬、採肥を目的として牛を導入し、飼育を奨励したと伝えられています。
つまり、置賜地方では300年以上前から牛の飼育技術があったことになります。
食用としては、明治元年(1868年)に牛2頭が官軍に献上されたという記録が残っています。
藩政末期から明治の初期にかけて、置賜地方西部の飯豊町旧豊川村で「手の子の競り市」と呼ばれる牛の競り市が行われていたことから、この頃から置賜地方では牛肉を食べていたことがわかります。
そして、官軍に献上されるほどですから、当時からレベルの高い食味であったと考えられます。
米沢牛が有名になり始める
米沢藩校「興譲館」(現在の興譲館高等学校)を引き継ぐ「米沢県学校」に赴任していたイギリス人教師チャールズ・ヘンリー・ダラス氏が、明治8年(1875年)に任期を終えた際、横浜の居留地に一頭の牛を連れて帰り、その肉をイギリス人仲間に食べさせたところ大好評だったと言われており、おいしい牛肉として噂になったと考えられます。さらに、明治中頃に、西置賜郡添川村(現在の飯豊町添川)の佐藤吉之助という人が横浜の問屋と特約して横浜での販売が始まると、食味の良さが評判となり、「米沢牛」として有名になって行きました。
明治32年の奥羽本線の開通を機に横浜への牛の大量出荷が始まり、置賜地方産の牛が、銘柄牛「米沢牛」として確立されることになりました。
食用牛としての飼育方法の変化
西日本で、松坂牛として黒毛和種の名声が高まると、置賜地方でも積極的に黒毛和種が導入されるようになりました。食用牛としての食味をさらに高めるべく飼育方法の改良が行われ、現在に至っています。
米沢牛の特徴
米沢牛の特徴は、嫌みのない甘い脂質と、柔らかく濃厚で香ばしさを感じる赤身のコラボレーションです。
それは、置賜地方特有の自然環境,畜産農家の長年に渡る飼育技術,厳しい認定基準により生み出されます。
- 山形県南部、置賜地方3市5町でのみ飼育。
- 置賜盆地特有の、夏は優に30℃を超える暑さ、冬は積雪1.5m以上が当たり前の氷点下の気温という、寒暖差の激しい厳しい自然環境による極上の脂質。
- 吾妻連峰、飯豊連峰から流れ出す、豊富な雪解け水を源とするおいしい水。
- 認定された畜産農家が登録された牛舎でのみ飼育。
- 長年の蓄積による高い飼育技術。
- 他のブランド牛の多くが28ヶ月以上とする中、32ヶ月以上の長期肥育による肉質の向上・旨味の凝縮。
- 他のブランド牛の多くが去勢牛を含める中、米沢牛は未経産の雌牛のみ。
飼育エリアが狭い。厳しい認定基準により生産頭数が少ない。そのため、隔週でしか競りに上がらない希少価値の高い牛肉。それが米沢牛です。
【米澤豚一番育ちについて】
私たちの地元、山形県南部の置賜地方のブランド豚です。
ランドレース種と大ヨークシャー種を交配させた豚のSPF豚(決められた特定の病原体を持っていない豚)に、霜降りが特徴のデュロック種を交配させた三元交配豚。
クセのない脂の甘さと柔らかい肉質が特徴で、ビタミンEを通常の豚肉の約2.7倍含みます。
最近、テレビの料理番組でも取り上げられることが多く、一流レストランで使われるケースも増えています。